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近江国(現・滋賀県)の歴史文化の紹介や画像を綴る。湖東地域がメインになりがちですがご容赦を。
by aaakasonae
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(一応)移転のお知らせ
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(一応)移転のお知らせ
すみません長らく放置しております。

エキサイトブログで書き始めた近江群青ですが、画像のサイズ制限・アカウント名の制限諸々あり使いにくいと感じたため、別サーバーに移転してぼちぼち書いております。

移転先は↓こちら
http://ohmigunjyo.shiga-saku.net/

エキサイトブログの方ですが、暫く様子を見たあと削除するか検討します。
# by aaakasonae | 2011-09-18 21:57 | 案内
ヴォーリズさんの足跡を辿る(1.彦根市日夏町「日夏里館」(ひかりかん)))
元来、近江(滋賀)といえば…と問えば琵琶湖やひこにゃんという声が返って来ていた。
しかし、最近になるとある人物の名前が返ってくることが、ままある。

「すみません、ヴォーリズさんの建物はどちらでしょうか」と。

ヴォーリズとは、大正時代に米国から近江八幡市に渡ってきたキリスト教伝道師、そして後の建築家である。
ヴォーリズ記念館ウェブサイト
↑細かな説明は、こちらを参考にしていただければ幸いである。

このヴォーリズという人は、日本にキリスト教を広めるためYMCAの一員としてやってきた。しかし、彼はキリスト教を押し付けようとはしなかった。日本人の暮らしの中に、キリスト教の教示に基づいた健康的で文化的な生活を伝えようとした。

日本で伝道師として暮らすうちに、、彼は建築を通じて日本の生活様式をより良いものにしたいと考えた。だがそれは西洋建築の押し売りではなく、和と洋の優れた部分を合わせたものだった。そして、それはいつも建物を使う人の立場を考えたものであった。

前置きが長くなったが、今日は彦根市内で最近発見されたヴォーリズ建築の一般公開があった。


この日夏里館という建物は、かつて日夏町役場兼農業組合事務所として昭和十年(1935)に建てられた。戦後すぐ彦根市と合併すると、その後は公民館と農協支所として半世紀近く住民に使われていた。
(写真は建物裏手)


その後所有権が移り、ここ数年は建物は封鎖されていた。老朽化もあり、取り壊すという話もあった。だが、ある町民の方が、町の歴史を見届けたこの建物の取り壊しを惜しんだ。そしてその方が買い上げ、現在は自治会や有志の方々が町のシンボルとして保存管理を行い始めた。
(写真は建物正面右手)


しかしこの建物を調べていくうちに、昭和初期にヴォーリズ建築事務所(現:一粒社ヴォーリズ建築事務所)に設計を依頼していたこと、そして当時の設計図が現存していることが判明した。設計はヴォーリズ建築事務所、建築士は小川祐三となっている。そこにヴォーリズ自身の名はない。同事務所が設立して30年近く、恐らく監修として後進の育成に乗り出した頃だと思われる。
(写真は建物正面左手。喫茶店が併設している。)


1Fは役場窓口や町長室、農業組合事務所などが併設していた。この階段は建物裏手になる。


ヴォーリズ建築は外観での見極めが難しい。だが、階段を見るとすぐに分かるという。
昭和初期の建物では珍しい緩やかな段差、踊り場と採光の窓、そして広い手すりだ。


他のヴォーリズ建築では、この手すりを滑り台にして遊んだという話をよく聞く。
それほどに緩やかな傾斜で、使う人の事を考えた設計になっている。


二階はかつては議場として、現在は集会場として使われおよそ百畳の広さだという。
私もヴォーリズ建築は好きだけど、これほど広い畳敷きは全国でもここだけだと思う。
天井も、当時のままの形を保っているという。


この日はNPO法人一粒の会理事の石井和浩先生の講演であった。自身が再生・活用に携わった同じヴォーリズ建築の事例を基に、今後の日夏里館の活用へのアドバイスや同建築関係者のネットワークの構築、ヴォーリズの提唱した建築の理念をお話しされた。


同じ彦根には国宝の彦根城が四百年も建ち続けているし、築百年を超す寺や古民家も少なくない。だが、他明治以降の建物は意外と少ない。戦災は彦根では皆無であり、耐久年数を超え取り壊されたものや、敗戦を経ての価値観の変化が理由だと思う。戦後、様々な公共施設が現代の価値観にあったものに建て替えられた事を見れば明らかである。

しかし、その「便利」のために、もっと大事な何かを捨て去るような気がする―

日本の歴史において、近江とは創造と破壊の歴史を重ねた国だと私は思う。東国・北国からの京への回廊として、様々な建築物や文化財が生まれては、権力者の都合で消えていった。今、その権力者とは誰なのだろうか。それは決して政治家や土地の有力者ではないと思う。

隣町の建物や風景がなくなっていったところで関係ない、新しいモノのほうが便利である―

本当に大事なものを追いやるのは、無関心な無名の市民一人ひとりではないだろうか。

そして、それを救うのは、愛着ある無名の市民一人ひとりではないだろうか。


近年、ヴォーリズ建築の価値や精神を見直す動きが全国各地で起こっている。かつて取り壊し問題に揺れた豊郷小学校も、改修を終えて町のシンボルとしての再スタートを歩み始めた。一方で、福島にあった教会建築や神戸の個人宅など、人知れず取り壊されていく建物も少なくない。

この日夏里館が、一日でも長く多くの人に愛されることを願いながら、ヴォーリズの言葉で締めたいと思う。

―住宅は本来住むためのものです。
  同様に言えば、学校は教育的計画のための家として考案された道具です。
  病院は病人の自然な回復力を助けるための機械です。
  商業建築は能率的な業務運営の中心です。
  このような建築を個人的な気まぐれや思いつきで着飾り、
  自己宣伝のための広告塔や博物館向きの作品のように心得て設計すべきではありません。

  建物の風格は人間の人格と同じく、その外観よりもむしろ内容にあります。―

                                 ( 「ヴォーリズ建築事務所 作品集」 序言より抜粋)


(かつての町役場の柱時計)
# by aaakasonae | 2011-08-07 23:48 | 近代
石田三成の故郷(3)(滋賀県長浜市石田町)
石田供養塔以外にも石田町には見どころがある。


石田町は、かつての横山城跡の南西麓にある。つまり姉川の合戦の最前線だったわけだ。
当時十歳の三成は、ここから東に離れた観音寺に坊主として預けられていたという。
父の正継や兄の正澄、家臣領民たちはいかなる思いで姉川の合戦に臨んだのだろう。


そんな妄想にふけりながら、日吉神社がある南麓から横山城へと登ろうとした。


五分後、次々と襲い来る浅井軍ならぬヤブ蚊の猛攻に負けて登頂は断念。
信長や秀吉、諸侯たちも蚊に悩まされたのだろうか。


建立時期はわからなかったが、後に豊臣秀吉の出世の基盤となった横山城跡に日吉神社。
途中見かけた看板に「サルにご注意」とあった。太閤さんの城下町も今は昔。


帰り道、幹線道路沿いにレトロな建物を発見。近江ベルベット社の工場とのことだが、実にモダン。
元来近江は絹上布の産地であったが、様々な様式で継承されていると思うと胸が熱い。


町の中心に戻って、ここは徳明寺という真宗大谷派のお寺である。
元亀年間の開基らしいが、織田~浅井の最前線で石山本願寺の寺院があったとは恐るべし…。


この本堂では、石田供養塔が発掘された年にあの吉川英治氏が石田三成の座談会を開かれたという。
その際に吉川氏の俳句が、石田会館の石碑として残されている。

様々な時代において、石田三成が語り継がれ、愛されてきたのだと思うとなにか不思議な気分になる。
太平洋戦争開戦の年。不安に満ちる世相の中で、こうした催しが行われていた事。
蝉しぐれ、とはいかないが蝉の声の響くこの風景を三成以前、三成以降の幾人が耳にしたろうか。

地元住民の方に聞くと、一週間ほど前に大河ドラマ「江」に出演中の萩原聖人氏が訪れたらしい。
三成を好演?中の氏だが、四ヶ月の大河でどこまで三成と一体化出来るのか…大まくりを期待したい。


ところで町角では、このような武将の名を刻んだプレートをあちこちで見かけた。
なんでも町内に十二箇所あるらしいが、場所を記したマップは石田会館の中らしい。
日も暮れかけていたので引き返したが、今度行くときは全てをチェックしたいところである。


# by aaakasonae | 2011-08-05 23:16 | 歴史
石田三成の故郷(2)(滋賀県長浜市石田町)

私も近江の、それもムラの住民だけど、必ずといっていいほど大きなお寺と氏神様が離れて存在している。
石田町の南、町外れにある「八幡神社」。


社殿前の参道に自己主張するように生える大樹が魅力的。

この神社の裏手には有名な場所がある。


石田一族や家臣団の供養塔である。


徳川幕府によって、石田家に纏わるものは全て破却された―
関ヶ原の合戦後、石田三成の故郷である石田村への仕置は、石田家代々の墓石にまで及んだという。


しかし、石田家を偲んだ村の人々が、密かに八幡神社の社殿裏に墓石を埋めて隠した。
更に、この場所に立ち入ると腹が痛くなる等の風説を流し、三百年の長きに渡り墓石を守ってきた。

昭和十六年、石田三成公事跡顕彰会により墓石達が発掘される。340年振りに日の目を浴びる。
昭和四十八年、同顕彰会全国の有志により、現在地に墓石群を安置。以後四十年に渡り人々が慰霊に訪れる。


私自身は石田三成という人間は二極性をもった人物だと思っている。

一極は政治家としての石田三成。正直言ってこちらの面はどうしようもない男だと思う。

天下は豊臣家と親藩だけで本気で回せるとすら考えていたのかもしれない。
義や友情の将というフレーズが三成の代名詞として飛び交うが、単に身内主義の官僚だったようにも聞こえる。
身内にすがるしか道がなかった― 三成とは、頼るものが居ないところへと進んでしまった男だ。

だが、もう一極の三成は「意地の男」だと思う。


(石田三成産湯の井戸)

徳川家康に対する決起という、後世からすれば「馬鹿なこと」をやらかした男―それが石田三成である。
だが三成をおいて、誰が他にそんな馬鹿なことをやらかせたのか。

エリート官僚としてのキャリア。
忍城での失態。
秀次事件での風説。
奉行職からの転落。
関ヶ原での大博打。
渋柿の逸話で語られた諦めの悪さ。

程度の違いはあれ、男なら誰でも理解されない苦しみを味わったことがなかろうか。
なればこそ、自分を証明するために命を張る。負けて悔いなし。
笹尾山での三成は、こんな心境では無かったろうか。

主君や親しい諸将との逸話、後世の歴史が語る人柄。
何より未だに評価は二分されている事自体が、石田三成という人の深さを語っている。


彼の古里では、今日も人々の生活が営まれている。
今年も秋には、石田家の慰霊祭が執り行わるそうな…。
# by aaakasonae | 2011-08-04 23:31 | 歴史
石田三成の故郷(1)(滋賀県長浜市石田町)
石田三成といえばあなたは何を思い浮かべるだろうか?
稀代の宰相とも、亡国の奸臣とも、十人十色の意見が返ってきそうである。


そんな事を思いながら、三成の故郷・石田町へと足を伸ばす。(石田町中心への幹線道)


旧の町道を通ったので、お目当ての供養塚と石田会館の駐車場が判らず、30分ほどグルグル迷う。(バス停側の石碑)


町の中心には、有名な三献の茶のモニュメントがある。


一間ほどの細い路地を抜けると、三成屋敷跡とされる石田会館に着く。
発掘された三成の頭蓋骨から推測されたブロンズ像がそこには座っていた。

しかし、石田会館は誰も居なかった…明記されてる電話番号も反応なし…秋にまたリベンジだな。

(続く)
# by aaakasonae | 2011-08-04 22:19 | 歴史

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